遺言により何も相続しないと信じた者が熟慮期間経過後に相続放棄をすることができるか【東京高決平成12年12月7日】

事案の概要

  1. 抗告人は、被相続人乙野太郎の長女であり、相続人は、平成七年一〇月二六日死亡し、同日抗告人はこれを知った。被相続人の法定相続人は、抗告人及び被相続人の長男(抗告人の兄)乙野一郎の二人であった(被相続人の妻で、抗告人らの母は、平成四年二月五日死亡していた。)。
  2. 被相続人は、平成四年九月二四日、次の内容の公正証書遺言(以下「本件遺言」という。)をした。
     (ア) 遺言者は、遺言者所有の次の財産のすべてを一郎に相続させる。
     <1> 千葉県市川市新田〈番地略〉宅地279.53m2
     <2> 同所〈番地略〉所在、家屋番号一五五番八
     鉄筋コンクリート造陸屋根五階建共同住宅(床面積省略)
     <3> 埼玉県草加市瀬崎町字沼田〈番地略〉3560.51m2の持分九三三一九一分の四一五八
     <4> (一棟の建物の表示)
     同所二一〇四番地所在、鉄骨鉄筋コンクリート・鉄筋コンクリート造陸屋根八階建(床面積省略)
     (専有部分の建物の表示)
     家屋番号瀬崎町〈番地略〉、建物の番号中央棟―八〇九
     鉄筋コンクリート造一階建居宅、八階部分77.21m2(以下「本件マンション」という。)の持分二分の一
     <5> A皮革産業株式会社に対する遺言者の株式全部
     <6> 大和銀行三ノ輪支店に対する遺言者名義の一切の預金債権及び信託受益権
     (イ) 遺言者は、いずれも遺言者に係る株式会社大和銀行(三ノ輪支店扱)からの借入金、住宅金融公庫からの借入金(以下「本件債務」という。)及び太陽信用金庫(草加支店扱)からの借入金を一郎に継承させる。
     (ウ) 遺言者は、本件遺言の執行者として株式会社大和銀行を指定する。
  3. 被相続人は、生前、A皮革産業株式会社を設立し、同社を経営していたところ、一郎も同社に入社し、平成四年ころに代表取締役に就任し、被相続人とともに同社の経営に当たり、被相続人死亡後は、一郎がこれを継いだ。抗告人は、同社の経営に全く関与していなかった。
  4. 株式会社大和銀行(信託業務部)は、本件遺言の遺言執行者の就職を承諾し、一郎及び抗告人もこれを了解し、同社は、遺言執行事務に着手し、一郎及び抗告人に対し、平成七年一一月三〇日付けで相続財産目録を作成・交付したが、これには、積極財産として、上記(2)(ア)の<1>ないし<4>の不動産及び<6>の普通預金及び定期預金のほか、本件マンションの敷地の一部であり、本件遺言から脱落していた草加市瀬崎町字沼田〈番地略〉宅地1516.75m2の持分九三三一九一分の四一五八が記載(積極財産の固定資産税評価額等の合計額二億〇三三九万一三六四円)され、消極財産として、大和銀行三ノ輪支店からの借入金(二億二二二九万五七一六円)が記載されていたが、住宅金融公庫からの借入金等は記載されていなかった。また、被相続人の相続財産としては、本件遺言に係る積極及び消極財産並びに同土地持分のほかには存しなかった。
  5. 抗告人は、一郎がA皮革産業株式会社の債務の連帯保証をするなどして多額の債務を負担しているのに対し、自らは生活が安定しており、被相続人の相続財産を必要とする事情がなかったため、本件遺言に基づき一郎が被相続人の債務を含むすべての相続財産を承継取得することを承認し、遺留分減殺請求もしなかった。
  6. 上記(4)のとおり本件マンションの敷地の一部である〈番地略〉の土地の持分が本件遺言から脱落していたので、遺言執行者である株式会社大和銀行は、同持分について一郎への相続(持分移転)登記手続をするために、遺産分割協議書を作成することとし、一郎と抗告人は、平成七年一二月四日付けで、同持分を一郎が取得する旨の遺産分割協議書を作成し、これに基づき同登記手続が行われた。
  7. そして、株式会社大和銀行は、一郎及び抗告人に対し、平成八年一月三一日付けで、預金の名義変更、債務承継の手続が完了したとして、本件遺言に関する一切の執行事務を完了した旨の遺言執行顛末報告書を交付した。
  8. 一郎は、平成一〇年二月に脳内出血により入院し、以後回復せず、同年五月にA皮革産業株式会社の代表取締役を辞任し、同社は、同年八月に銀行取引停止処分を受けて倒産し、一郎は、上記(4)の借入債務のほか、同社の借入債務の連帯保証債務、同社の運転資金にあてるために同人が借り入れた債務の弁済が不能であるとして、同月二四日、自己破産の申立てをした。
  9. 抗告人は、平成一二年六月一七日に至って初めて、住宅金融公庫から、本件債務についての催告書の送付を受けた。
     本件債務は、被相続人が昭和五七年六月に一郎とともに本件マンションを持分各二分の一の割合で購入した際に負担したものであった(債権額九五〇万円、残元金額七一八万八三八二円)。
  10. 抗告人は、上記(9)の催告書の送付を受けるまでは、本件債務は残存していないか、残存しているとしても、本件遺言に基づき一郎が承継するもので、その手続を株式会社大和銀行がしたものであり、自己が相続することはないと考えていた。
  11. 抗告人は、平成一二年八月三〇日、上記(9)の催告書の送付を受けたことにより相続開始の事実を知ったとして、原裁判所に対し、本件相続放棄の申述をした。

争点

  1. 遺言により何も相続しないと信じた者が熟慮期間経過後に相続放棄をすることができるか

判旨

遺言により何も相続しないと信じた者が熟慮期間経過後に相続放棄をすることができるかについて

 抗告人は、被相続人が死亡した時点で、その死亡の事実及び抗告人が被相続人の相続人であることを知ったが、被相続人の本件遺言があるため、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じたものであるところ、本件遺言の内容、本件遺言執行者である株式会社大和銀行の抗告人らに対する報告内容等に照らし、抗告人がこのように信じたことについては相当な理由があったものというべきである。
 民法九一五条一項本文が相続人に対し単純承認若しくは限定承認又は放棄をするについて三か月の熟慮期間を許与しているのは、相続人が相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った場合には、通常その各事実を知った時から三か月以内に調査すること等によって、相続すべき積極及び消極の財産の有無、その状況等を認識し又は認識することができ、したがって単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択すべき前提条件が具備されるとの考えに基づいている(最高裁昭和五九年四月二七日第二小法廷判決・民集三八巻六号六九八頁)。ところが、抗告人は、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じ、かつ、このように信じたことについては相当な理由があったのであるから、抗告人において被相続人の相続開始後所定の熟慮期間内に単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択することはおよそ期待できなかったものであり、被相続人死亡の事実を知ったことによっては、未だ自己のために相続があったことを知ったものとはいえないというべきである。そうすると、抗告人が相続開始時において本件債務等の相続財産が存在することを知っていたとしても、抗告人のした本件申述をもって直ちに同熟慮期間を経過した不適法なものとすることは相当でないといわざるを得ない。なお、抗告人は、後に、相続財産の一部の物件について遺産分割協議書を作成しているが、これは、本件遺言において当然に一郎へ相続させることとすべき不動産の表示が脱落していたため、本件遺言の趣旨に沿ってこれを一郎に相続させるためにしたものであり、抗告人において自らが相続し得ることを前提に、一郎に相続させる趣旨で遺産分割協議書の作成をしたものではないと認められるから、これをもって単純承認をしたものとみなすことは相当でない。
 そして、抗告人は、平成一二年六月一七日に至って住宅金融公庫から催告書の送付を受けて初めて、本件債務を相続すべき立場にあることを知ったものであり、上記認定の経過に照らすと、それ以前にそのことを知らなかったことについては相当な理由があるものというべきであるから、同日から所定の熟慮期間内にされた本件申述は適法なものである。

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